花模様

Logo 「別れ道」  



 「フゥーッ。」
旅館の前に車を止めると、男は肩で一息ついた。
ゴーグルを外し、長い髪をかきあげる。
鬼怒川源流の一軒宿。太陽は少し前に山の影に落ちていった。
ステアリングから手を離すと革のグローブの内側が汗で黒く湿っている。
―約300キロか。―
オドメーターの数字を見て、笑いがこみあげてきた。


 朝一番で東京を出た。以前から計画をしていたたびではない。
今日は天気が良さそうだ。仕事も一段落した。出発の決断はこれで十分。
行き先は。クルマを考えれば自ずと決まる。明日の夕方までに帰れればいい。思い切って北に向かうことにした。
 東北自動車道を佐野藤岡I.C.で降りるのには訳があった。
―品川ナンバーのケーターハム7―
 夏の間ガレージで眠っていたこの車のアクセルを一刻も早く全開にしたかったから。
それも一番ふさわしいイステージで。
高速道路はスタート前のフォーメーションラップのようなものだ。
 赤城の麓にたどり着くと。シグナルはグリーンに変わった。
蹴飛ばすようにアクセルを踏み込むとセブンはワインディング・ロードに踊り出た。
 それから先は緊張と興奮の連続だった。アドレナリンとドーパミンが体中を駆け巡る。
腰と背中でGを感じ、瞬時にクリップを見極め、右足に力を込める。
ストレートでは息つく暇も無い。次から次へと現れるコーナーをクリアし、道は赤城山、金精峠、いろは坂、霧降高原へとつづく。
途中たまらず何度かピットインはしたものの、見事完走を果たした。
 2ヵ月ぶりの至福のときは終わった。
エンジンを止めても耳の奥にはクゥオ―ンと言う金属音が残っている。
目は今でも動くものを追い求め、つま先はわずかに震えている。
肩に食い込んでいた4点式のシートベルトを外し背中と腰を浮かせる。
と、それまで一体となっていたセブンとの間に僅かな隙ができた。
革のジャケットからタバコをとりだし、両手をかざしてゆっくりと火を着ける。
―L.S.D.の効きが少し甘くなったかな。―
 煙を眺めながら暫くぼんやりと過ごした。
あらためてあたりをみまわすと大きなな看板が目に入る。
[自然環境保護のため一般車両この先進入禁止]
 思わず頬が緩む。
 チェッカーフラッグを受けると男は宿に向かって歩き始めた。


 松浦直人。41歳。血液型B型。
 二日前迄は妻と息子の住むニューヨークにいた。
 ピアニスト。作曲家。音楽プロデューサー。俳優。etc。
 名前と顔はかなり知られている。選挙に出れば下手な政治家よりも票を集められるかも知れない。特に最近手懸けた某テレビCMソングは大ヒットし、知名度は急上昇。仕事の依頼も殺到している。この点ではまさに順風満帆といえるだろう。
 妻と息子の3人家族。と言っても、3人暮らしではない。
 東京に帰れば新宿のマンションにひとりだけ。家族が一緒に過ごせるのは年に2ヵ月程だろうか。たった一匹の理解者、愛犬アンソニーも現在訓練所で合宿中。
「結婚しても仕事は続けたいの。」
 プロポーズの時の約束を、直人は15年以上守りつづけてきた。敢えて仕事を持っている相手を選んだわけではない。
 サチヨに結婚を申し込んだのは、二人で新橋の赤ちょうちんにいったとき。
―こいつと一緒になるのが一番いいのかな―
 ふと、そう感じたから。他に理由はない。
実際、サチヨがN.Y.でデザイナーとして成功しているのは、彼女の才能もさることながら、直人が誠実で、そのあたりの事情に寛容だったからかもしれない。
 息子は12歳。今はチェロに夢中で将来はジュリアード音楽院に進みたいらしい。
一生(イッセイ)という名前はサチヨがつけた。
 「音楽の感性はあなたの血筋ね。」
 そう言われると、少なからずうれしい。
今の生活に、これと言った不満はない。が、その一方で
―このままでいいのだろうか。―
という気もしないではない。
 ただ、直人は生まれつき、物事をあまり深く考え込むタイプではない。好みははっきりしているし、自分で決めたことにはそれなりに責任をもつ。後を振り返りあれこれ悩むより、できれば前を見据えていきたい。それに今の暮らしも考えようによっては
―創作を業とする者には最高の環境―
なのかも知れない。直人にとっては至極、当たり前の日々である。


 宿帳には本名を書いた。住所と電話番号は所属事務所のもの。万一に備えてデタラメは書かない。職業欄は空欄のまま。
 おおよそ芸能人と名の付く者、オフの時にはサングラスをかけたがる。正体を隠すつもりなのだろうが、夜間や室内では如何にも奇異に感じる。
 直人はサングラスはしない。いつでもどこでも素顔でとおす。地味な服装をしていればかえってこのほうが目立たない。芸能生活20余年で身についた術。
 フロントの50年配の男。この宿の主人だろうか。直人の顔をチラッと見ただけで、後は通り一遍の案内を始めた。
 部屋の番号。食事の時間。酒の好み。風呂の場所。
―とにかく一風呂浴びたい―
そのことだけを考えていた。
 十畳ほどの和室に通されると、すぐに浴衣に着替え河原におりる階段へと向かった。川の流れる音が次第に大きくなる。
 渓流に面した露天風呂にはすでにあかりが灯っていた。他に客の姿はない。一番大きな岩風呂を選ぶとからだを沈めた。
 秋風が頬をかすめる。背中を包み込む湯の温もりが心地よい。手足を伸ばし岩肌の感触を探る。張り詰めていた神経がゆっくりと解き放たれていくのを感じる。
 山の空気に満たされて直人は静かに目を閉じた。


 「指が長くてキレイな手。」
 ピアニストなら珍しいことではない。からだが大きいせいもある。185センチはあるだろうか。目鼻立ちも欧米人を思わせるほど、スッキリと整っている。
 直人の生家、新橋の松浦家は由緒正しい士族の家柄である。明治以降は歴代天皇の御璽製作を担当する宮内庁御用達の印舗として世に知られている。
 その松浦家の後継者として、直人は幼いころから英才教育を受けてきた。ピアノの才能は、その風貎とともに、ロシア人の祖母から受け継いだものである。
 祖母はロマノフ王朝の貴族の末裔であった。ロシア革命の勃発によりやむなく母国を離れ、当時日本からの留学生だった祖父とともに来日し松浦家に嫁いだ人である。
 何事もなければ、直人は名門印舗の跡継ぎとして何代目かの当主に収まっていた筈であった。有名一流幼稚園からエスカレーターに乗り有名一流高校までは筋書き通りだった。
 しかし高校2年の夏、友人に誘われ参加したロックバンドが全国大会で優勝したときから、彼の人生は180度向きをかえた。
 依頼、この業界で20余年、常に集団の先頭を走り続けて来た。
―あの時誘いを断っていたら今頃何をしていただろう。―
 以前は考えもしなかった。が、近頃ふと、頭の片隅に浮かぶこと。
―サチヨ以外を選んでいたら。―
 悪気があってのことではない。
良妻賢母ならミツヨだったろう。外見で選ぶならアキコ。肌が合ったのはクニコか。
 何事にも、常に選択肢はあるものだ。思えば今日もそうだった。
 行き先は伊豆でもよかった。ジャガーに乗って来ることもできたし、高速道路でもよかった。赤城や金精峠を通らなくても、足尾からでも日光には出られた。
 その時々の判断には何らかの理由があり、それに対する結果がある。
どの道同じ結果になることもあるだろうし、正反対の方向に進むこともあるだろう。
 生まれてこの方、知らぬ間に何千何万という岐路に立ち、下してきた判断に間違いはなかったのだろうか。
 自信はないが、今の暮らしに特別不満があるわけではない。むしろ満足することのほうが多いだろう。結果から推測すれば正しかったことになる。
 これ以上もこれ以下も、決して望むものではない。が、もしも自分に用意されていた他の道を進んでいったらいったい何処にたどり着いていたのだろう。
―別の自分に会ってみたい。―
 そんな事を考えるときがある。


 人の気配を感じて直人は目を開けた。
湯気の向こうに誰かいる。肩から上の後ろ姿。白い肌、細いうなじ、長い髪をまとめてバレッタで止めている。
―エッ。オイ。ウソだろ。オンナァ?―
思わず声が出そうになった。
―しまった。―
宿の主人の言葉を思い出した。
「お風呂は全部で12ヵ所あります。一つは屋根付で女性専用です。」
あわてて上を見たが、屋根は無い。
「他の11ヵ所はすべて混浴です。」
ほっとすると同時に、岩の上に置いたタオルを引き寄せた。
「ポチャン。」
水音に彼女は振り返った。距離にして3メートル。薄明かりの中に微笑む顔が見えた。
「こんばんわ。」
先に声をかけてきたのは彼女の方だった。
「こんばんわ。」
同じあいさつを返しながら直人は両手で顔の汗を拭った。
 20代後半。おそらく30にはまだ届かないだろう。掬い上げるような瞳にはあどけなさが残る。時折視線をそらし、小首を傾げながら角度を変え直人を見つめてくる。水面に浮かぶ胸元は豊満な肢体を思わせる。直人の好みのタイプ。
―鄙にも稀ないい女―
古い言い回しだが、そんな言葉がピッタリと当てはまる。再び口元に白い歯が見えた。
「お一人ですかァ?」
「あっ。はい。」
「わたしもなんです。友達が急に来られなくなっちゃって。」
 直人が次の言葉を探していると、
「あのォ、失礼ですけれど。松浦さん? 松浦直人さんですよネ。うれしーい。私大ファンなんです。表に止まっている赤いカッコイイクルマ。あれに乗って来られたんですよネ。ず―っと見ていたんですヨ。降りて歩いてくるところ。うふっ。似ている人だナァーて。うわ―っ。感激―ッ。どうしよう。」
そう言うと彼女は立ち上がり一気に距離を詰めて来た。前を覆っていた布がはずれ、全てがあらわになった。初対面の女性が生まれたままの姿で目の前に立ちはだかっている。
―よく間違えられるんです。―
などという言い逃れができる状況ではない。
女の香りがさらに近づいてくる。
―ヤバイ。―
 本気でそう思った時、入り口の方で人の声がした。
彼女はあわててしゃがみこむと直人の耳元でそっとささやいた。
「ゴメンナサイ。私ったら、つい興奮しちゃって。ノリカ。私、藤山紀香といいます。301号室なの。一人で寂しくて。お願い。後で来て。カギはあけておきます。」
そう言い残すとタオルをサッと体に巻きつけ小走りに去って行く。
途中、何度かこちらを振り返ると腰のあたりで小さく手を振った。


「フゥーッ。」
直人は肩で一息ついた。
今、目の前に別れ道があった。
女の後を追う、もうひとりの自分の姿が見えた。

文責:橋本 裕



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